海は世界を繋ぐ。時間は歴史を繋ぐ。

海は世界を繋ぐ。時間は歴史を繋ぐ。

ときどき、私が今見ている海の向こうには別の大陸が存在するのだという事実を、不思議に感じることがある。地球が1つの球体であることは百も承知しているのに、地球上のすべての大陸・国が1つの表面上に連なっているということが、心底おかしなことのように思えるのだ。

海という存在はとてつもなく広大だ。たとえば私が今、アメリカ大陸の西海岸・ロサンゼルスのサンタモニカから太平洋を望んだとして、どんなに目を凝らして見てもユーラシア大陸を肉眼で見ることはできない。石川県輪島市の海岸から日本海を透かして見てもユーラシア大陸は望めないのだから、アメリカ大陸から望むなんて、それこそ不可能だろう。

自分の目で確かめることができないのに、この海の向こうには中国大陸があるのだ、ヨーロッパがあるのだと言われても、どこか非現実的な気がするのだ。

日本は島国だから、陸続きでは他国に隣接していない。他国へ行くには飛行機に乗って空を飛ぶか船に乗って海を渡るかしか方法がないのだ。乗り物に乗っている間は実質的に移動しているけど、自分の足を動かして移動しているわけではない。自分自身で移動している実感がないから、飛行機や船での移動は私にとって瞬間移動のようなものに感じてしまう。搭乗口から飛行機に乗り、数時間経ってから同じ搭乗口を開けたら目の前には別の国が広がっているというのが、なんだか、もといた次元から別次元へ移動したような気持ちになるのだ。

だけど実際には、陸と陸はたしかに海で繋がっている。

これと同じような感覚で、時代というのも私にとっては別次元の世界のように感じている。弥生時代や戦国時代、江戸時代などが、軸を同じくする1つの時の流れの中で起きた出来事だとは、どうにも実感しにくいのだ。ましてやエジブト文明やヒッタイト文明、ローマ帝国といった海外の歴史ともなると、それこそ同じ次元の話だとは到底思えない。

そんな、生きていくうえでなんの役にも立たなそうなことを、ときどきぼーっと考えている私だが、ある時1冊の本を読んだ。タイトルは忘れてしまったが、江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜に関する資料だった。そこには、天皇に政権を返上した大政奉還の後、将軍職を退いた慶喜公が死去するまでの余生について、事細かに書かれていた。

慶喜公は、戊辰戦争終結後に謹慎を解かれてからは静岡に住んだ。そこで囲碁や狩猟、写真などといった趣味に没頭していたらしいが、その中で興味深かったのが、自転車にハマっていたという話だ。自転車をこよなく愛した慶喜公は、何かというと静岡市内で自転車を乗り回していたらしい。慶喜公が自転車に乗っている姿を描いた絵画が今も残っており、その資料本にも画像が掲載されていた。また、狩猟の格好をした慶喜のモノクロ写真も載っていた。

それを見た時、私の中で、歴史と現代の時間軸がカチッと繋がる音がした。

あの徳川慶喜が自転車に乗り、狩猟に出かけるというありふれた日常を生きていた。その事実が、なんだかおかしかった。それまでは教科書の中だけに存在していたどこか空想的だった人物が、突如として現実的なものとして感じられた。なるほどたしかに、時間は間違いなく繋がっているのだ。

海は世界を繋ぎ、時間は歴史を繋ぐ。嘘のようで、本当の話である。