あぁ、日常が幸せって幸せ

あぁ、日常が幸せって幸せ

カリフォルニアに来て良かったと思うことの一つは、日常が幸せだと思えるようになったことだろうか。

いや、もちろん日本で生活していた時だって日常に幸せを感じることは多々あった。

でも、何と言えば良いのだろうか。
カリフォルニアの日常で感じる幸せは、もっと人間の原点に気づかせてくれるような幸せ、と言えば良いだろうか。

たとえば朝、アパートのエントランスのドアを開けて外に一歩踏み出した瞬間、私の鼻に真っ先に届くのは、松並木の香りと花々の香り、カラッと晴れた日の爽やかな風の香りだ。周囲では木々がそよ風に揺れてサワサワとささやく声や、小鳥のさえずりが聴こえてくる。たったそれだけで、ああ、今日も幸せだと感じる。

たとえば平日の朝は車で5分ほど運転して、海岸沿いのハイキングコースを散歩する。高台から眼下に広がる太平洋と海岸沿いに並ぶ米粒ほどの家々を眺めながら、今日も綺麗だなあと穏やかな気持ちでハイキングコースを元気に歩く。道の脇では野ウサギが餌を求めてピョンピョン飛び跳ね、小さな鳥たちが低木の茂みをカサカサと動き回り、遠くからは飼育されたニワトリの朝の雄叫びが聞こえたりする。濁りのない空を見上げ、清らかな空気を肺いっぱいに吸い込んで、今日も1日頑張ろうと思える。

たとえば夜、日の入り後になると、家の周りからはフクロウがホウ、ホウと鳴く声が聞こえてくる。その声に応えるように別の方向からもホウ、ホウと鳴き声が聞こえてきて、彼らの会話にそっと耳を傾けて微笑んでいる自分がいる。フクロウだけじゃない。この地域にはリスやコヨーテ、アライグマ、スカンクなど、さまざまな動物たちが潜んでいる。そんな自然と共存しているこの環境が、とてつもなく幸せなことに感じる。

私が住んでいるエリアには馬用の牧場が多く、ときどき乗馬をしている人々が道路脇を歩いていることがある。信号機には歩行者用のほかに、乗馬をしている人のために高い位置に押ボタンが設けられていて、そんな小さな気遣いにもホッコリさせられる。

ビーチが近いのも嬉しい。週末には車を20分ほど運転してビーチへ赴き、砂浜の上にシートを敷いて寝転んで読書をする。風が冷たい時もあるけど、太陽が出ればどんどん暖かくなって気持ちの良い1日になる。読書に飽きたら裸足で砂の上をさくさくと歩いてみる。誰かが言っていた。足の裏の素肌が大地に触れることで、日々の生活で体に溜まった電磁波を地中に放出するとともに大地のエネルギーを吸収することができ、デトックスになるのだそうだ。実際に裸足で歩いてみると、なんだか心も体も解放されてリラックスした気分になる。肌で感じる大地はこんなに気持ちの良いものなのだと、改めて気づかされる。

カリフォルニアは温暖な気候だから、人々も陽気だ。道端で目が合えば「ハイ!」と声を掛け合い、グローサリーに買い物に行けばレジで店員さんが「今日はどんな1日?」と笑顔で話しかけてくれる。そんな些細な挨拶ですら、 私に活力をくれる。世界が愛おしいという気持ちになれる。

日本にいた頃はどうだっただろうか。

もちろん幸せはいつでもそこにあった。

でも、都会に住み、喧騒に揉まれて日々の業務に忙殺され、小さな幸せに気づけていなかったのではないだろうか。息を吸えば工業的な匂いが鼻をつき、耳を澄ませばトラックが走る音や機械音がやかましく動く音。いつも人工物の主張のほうが優っていて、当たり前にそこにあるはずの自然というものが見えなくなっていたような気がする。何か分からないものにイライラして、ストレスばっかり溜まっていた。

もちろん、アメリカにいたってイライラすることもストレスを感じることもある。それは人間社会で生きていくうえで取り除きたくてもできないものだから仕方ない。

でも、心が乱れた時にすぐ近くに自然があるというのは救いだ。深呼吸して、自然の匂いや音に集中すれば心は穏やかになる。

昔から都会があまり好きではなく、自然に囲まれた暮らしに憧れを抱いてきた。

私には自然が近くにあるという暮らしが合っているんだなあと、しみじみ思う。

なんだか思うままに綴っていたら、ポエマーみたいな自分に酔いしれた日記になってしまった。
恥ずかしい、恥ずかしい。